こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。
ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、 「わたしが怒って、 彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、 誓ったように」 と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。
それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、
そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息に はいらせることはしない、と誓った」。
このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。
彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
平安に入るからである。 すべて正直に歩む者は、その床に休むことができる。
もろもろの民の君たちはつどい来て、 アブラハムの神の民となる。 地のもろもろの盾は神のものである。 神は大いにあがめられる。
もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。
なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。
またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。
こうして民は七日目に休んだ。